フォトギャラリー
エリック男爵は1985年、ラフィットと才能溢れる写真家(ジャック=アンリ・ラルティーグ、アーヴィング・ペン、ロベール・ドワノー、リチャード・アヴェドン他)のアート・コラボレーションをスタートさせました。その年に選ばれた写真家1名は思い思いに自らの写真作品でニューイヤーズカードを製作します。1975年から1985年に関しては年をさかのぼってカード・コレクションが構成され、これまで30名以上のアーティストが作品を発表しています。質の高い写真コレクションを作り上げていく上で、エリック・ド・ロートシルトは映像のプロである元『Publicis』ディレクター、ダニエル・ヴィニャにアドバイスを求めました。
「もちろんシャトー・ラフィットのワインに広告はいっさい必要ありません。神々の霊薬にはこれ以上の注釈は無用ですから。それでも、きらびやかなそのイメージとの芸術的コラボレーションは非常に魅力溢れるプロジェクトです。それが「恐竜的存在」の写真家や若き写真家らを採用して20年以上前から作り上げてきた作品で、現在も夢中で進めている製作事業なのです!」
2011 エリオット・アーウィット
エリオット・アーウィットは、ジャニン・ニエプス女史が仰るとおり、笑いを誘う写真作品という非常に稀な分野を代表するアーティストです。今年MEP(ヨーロッパ写真美術館)にて行われた展覧会では、彼独自のユーモアを存分に楽しむことが出来ました。10歩進むごと、つまり作品の3つにひとつは思いきりあるいはくすっと笑いがこぼれるものでした。
エリオット・アーウィットは1928年、パリにてロシア系両親の元に生まれます。50年代にはニューヨークにおいてマグナム・フォトのメンバーに加わりました。
これまで50年以上もの間、彼のルポルタージュ作品およびイラスト作品は世界中の出版物に掲載されています。現在も変わらぬオリジナリティとフィネスを魅力とする写真作品を制作し続けています。
2011年グリーティングカード制作はアーウィットが担当し、シャトー・ラフィットに実に感性豊かな視線を向けました。自分自身を「amateur(愛好家)」であると、語源上は「愛でる者」を意味する言葉で称する、才能溢れるプロの視線です。
2010 ベアトリーチェ・カラッチオーロ
ベアトリーチェ・カラッチオーロは、2006年の作品『アキテーヌの海』に続いて二度目の当コレクション参加となる。2010年は、彼女が撮影したシャトー・ラフィットの見事なスギの木(1999年の暴風雨以前に立っていた)がグループのグリーティングカードを飾る。
2010年はベアトリーチェ・カラッチオーロにとって、画家として、またもや大切な1年となる。2010年1月24日から3月14日の期間、これまでの彼女の作品を一堂に集めた展覧会『Tumulti』がローマのフランス・アカデミーの主催でヴィラ・メディシスにて開催されるのである。
2009 ウィリアム・クライン
画家であり、時には写真家であり映画監督であり、ウィリアム・クラインは大都市をこよなく愛するジャンル分け不可能なアーティストです。1928年ニューヨークに生まれ、二十歳の時初めてパリの喧騒と出会います。以来、片時も離れることなくパリの魅力にとりつかれてきました。写真家として活動する以前、クラインは絵画の手ほどきをとりわけアンドレ・ロートのアトリエで受けており、そこで彼独自の視点が鍛えられます。
> 詳細情報...
2008 パオロ・ロヴェルシ
1947年イタリア・ラヴェンナ生まれ。世界を代表するファッション写真家のひとり。イタリア的であり同時にパリ的な彼のエタ・デスプリは、彼のスタイルとなっているエレガンスへのふた通りのアプローチ法を思わせる。力強くかつ柔らか、詩的なまでに鮮やかな色彩あるいは精巧な白黒。パオロ・ロヴェルシは現在と過去の混合を得意とする。ポラロイドパック付8×10カメラを用いることで巧みに進化性のある撮影を実現させる。
> 詳細情報...
2007 マリー=ロール・ド・デケール
マリー=ロール・ド・デケールは1947年にアルジェリアのボーヌで生まれる。 23歳の時よりガンマ・エージェンシーの一流の報道写真レポーターとして世界の大事件や大戦争をカバーしてきた。ベトナム、南ア、チャッド、チリなどの国にはもう彼女にとって秘密はない。彼女の写真は真実に迫り、しばしば詩的な細部により引き立てられている。彼女の肖像写真やファッション写真には豊かで鋭い洞察力が表現されている。また、彼女は4年前から南チャッドのウーダベ族を追跡している。
2006 ベアトリーチェ・カラッチオーロ
イタリア国籍のベアトリーチェ・カラッチオーロは1976年から1979年ニュー・ヨーク大学ついでコロンビア大学に学びました。 素人の画家・写真家であった彼女は1990年代その作品を世に問いました。 特にパリとニュー・ヨークの展示会は文化人達から非常な賞賛を浴びています。 シャトー ラフィット・ロートシルトは彼女にとり、この地平線遥か彼方夢に紛れるような風景写真が示すように、安らぎの籠り場となったようです。
2005 エステール・ソバン
プロヴァンス地方で英米人の両親から生まれた若い写真家。 パリで勉強し、ニュー・ヨークに渡り映画の仕事をする。1999年からフランス東南部やアメリカで彼女の写真が展示されるようになる。エステール・ソバンは《室内》風景を撮影する、彼女の子供時代のそれは何時も繰返しあらわれる。彼女は、ある瞬間の魔法、日常を新しい日の元にさらしうる唯一の瞬間を追い求めている。
2004 マルティーヌ・フランク
マドリッドとルーヴルで美術史を学ぶ。ライフ誌のカメラマンとしてキャリアをスタート。1983年以来マグナム・エージェンシーの会員で、アーティストや作家を撮ると同時に、人道的な取材活動も展開。慈善団体「プチ・フレール・デ・プーヴル」の活動に数年間携わる。作品は広く展示され、様々な出版物にも掲載されている。この写真は、夫との夏季旅行の際にシャトー・ラフィットに立ち寄って写したものである。
2003 ジャニン・ニエプス
ブルゴーニュ地方のワインメーカーの娘。20世紀初め、フィロキセラの被害を避けるため、一家は地方からパリに移住。遠い親戚にあたるニセフォールは、写真術の発明者のひとり。芸術と考古学の勉強を始めた直後、写真に魅了され、戦後これに専念。作品が広く行きわたり、60年代フランスのイメージの創造に貢献。女性を取り巻く社会環境の50年の歩みを思い起こさせる。このプロジェクトで撮ったシャトー・ラフィットの写真の中に、シャトーの姿が池の水面に映っているものがある。上下が逆さになっており、池に浮かぶスイレンがまるで空に浮かぶUFOのように見える。
2002 リチャード・アヴェドン
若いころからファッション界と写真界に携わる。父親は婦人衣料品店のオーナーで、母親はファッション雑誌を収集するアマチュア写真家。1942年、アメリカ商船隊写真部門で兵役に就く。1945年、後に師となるハーパース・バザールのアートディレクター、アレクセイ・ブロドヴィッチに自身の作品集を披露。この出会いを通じ、20年間続いた共同プロジェクトを立ち上げた。さらに、エゴイスト、ルック、グラフィスなど大手雑誌の仕事を引き受け、多数の広告を制作。1950年代の偉大な写真家の一人とされ、顔と体の「感情を伴う配置」を追求している。
2000 アントニン・ボルジョー
ラフィットの偉大なフォトライブラリーに貢献した最年少の写真家。詩人であり写真家という2つの才能を持ち、リベラシオン紙に、南アメリカやモンゴル、そして南フランスの記事を提供。素晴らしいポートレート写真もいくつか制作している。これは、グリーティングカードというより、シャトー・ラフィットの写真を満載した小冊子のようだが、この作品に彼のヴィジョンを見ることができる。
1999 ジャン=ミッシェル・フォーケ
1950年ロンドン生まれ。カナダで12年間過ごし、大学で写真術を教える。その後パリに移住し、初の展覧会を開催。作品は写真というより油絵のような印象を受ける。光と形をとらえるやり方が際立っている。優れたプリント技術を持ち、特殊な印画紙や画材を使ったやり方は、錬金術師を思わせる。この画像は、デッサン、絵画、彫刻そして写真の全てのテクニックを使って制作されている。
1998 ベルナール・トゥイヨン
偉大な静物写真家。クリエイティブさに執着する姿勢が、多くの有名雑誌から高い評価を得ている。この写真は、写真家ホミの助けを借り、特殊なレリーフのテクニックを用いて加工を施した。これが魅力的な効果を生み出し、まるで、座ってワインを1杯飲みませんかと誘われているような印象を受ける。
1997 フランク・ホルヴァート
自身の切手コレクションを35mmのレチナカメラと交換。ブレラアカデミーで絵を学んだ後、広告代理店で働く。1949年、フリーの写真家として雑誌の写真制作を開始。1957年、エル、グラマー、ヴォーグなど、パリのファッションシーンで名を上げる。1989年、デジタル画像を使った作品制作を試みる。この手法は、グリーティングカードに載せるために制作された、シャトー・ラフィットの100年の歴史を持つブ葡萄畑にキツネがいるという構成の作品にも使われている。この動物を使った構成は、エリック男爵の提案によるもので、ホルヴァートはこの作品の制作に強い熱意をもって臨んだ。
1996 アンディ・ゴールズワージー
英国ランドアートの大家である彫刻家。自然との調和をテーマにした作品で世界に知られている。氷や石、葉っぱや木、そして海や小川や河などに興味を持ち、自然から大きなインスピレーションを得ている。シャトー・ラフィットのプロジェクトでは、こうした「黒い穴」を写真に収めた。「黒い穴」は世界の創造を表すものだという…。
1995 ジョルジ・ダモンテ
軍事独裁政権から逃れるため、一家は亡命生活を送り、モンテヴィデオとパリで青年期を過ごす。文化と芸術を愛する家族の中で育ち、わずか10歳で古いポラロイドカメラで写真を撮り始め、後に有名ジャーナリストのジャイメ・ジラルト・フォンと仕事を共にする。26歳で、すでに写真家としてエキスパートの域に達する。1974年、パリに移住し、劇場の写真制作に携わる。その後、イヴサンローランの仕事を引き受け、1984年、パリで初のショーを開催。芸術活動に専念するため、20年前から商業写真の制作を辞めていたが、エリック男爵とダニエル・ヴィニャは敢えて、彼の「パノラマ時代」に写真の制作を依頼した…。
1994 フランソワ=マリー・バニエ
16歳の時、サルヴァトール・ダリに絵の才能を見出される。この出会いのおかげで、ダリから多くを学ぶ。作家、画家、そして写真家という顔を持ち、ピエールカルダンのお気に入りとなる。スターの写真家と呼ばれているが、それ以外の被写体にも鋭い視線を投げかる。ラフィットのプロジェクトでは、自由に作品をつくることができた。1994年と2001年の2度にわたり、グリーティングカードに写真を提供している。
1993 ロベール・ドアノー
1925年、パリのエスティエンヌ学校に入学し、リトグラフを学ぶ。文字のデザインと、広告写真の制作でキャリアをスタート。労働者の生活環境の描写に強い関心を持つ。このシャトー・ラフィットの写真は、世間に名が知られるきっかけとなった、まさにそのスタイルで制作されている。この写真の制作からちょうど1年後の1994年4月に死去。この作品はダニエル・ヴィニャの忍耐強さのたまものである。というのも、この「巨匠」に会うまで2年の歳月を要したからだ。しかし、説得にかかった時間はわずか数分であった。この出会いによって、ドアノーが自分の兄弟とみなした、詩人のジャック・プレヴェールと共通の友人関係を2人が築くことになったのは興味深いことである。
1992 ジャン=バプティスト・モンディーノ
『Publicis』社のグラフィック・アーティストとして働いた後、躍進のきっかけとなったディム社の広告キャンペーンに携わる。音楽に強い関心を抱き、特にロックバンドの写真撮影に精力を注いでいる。そのため、スティング、マドンナ、ヴァネッサ・パラディなどのスターからビデオ制作を依頼されることも多い。また、ジャン=ポール・ゴルチエ、イヴ・サンローラン、クリスチャン・ディオールなど、ファッション界のリーダーからも高い評価を受けている。エリック男爵とダニエル・ヴィニャは、その独創性と光の使い方に興味を持った。シャトー・ラフィットでは、樽に注目。壁に残された樽の跡を、ストーンペインティングに見立てた。
1991 テッサ・トレーガー
著名なイギリス人写真家。写真を撮影し、編集を施した後、それを根本から修正するというスタイルをとっている。そのヴィジョンに興味を持った英国ヴォーグ誌が作品を掲載。それがきっかけで、広く世間の目に触れることとなった。現在、クリエイティブな手法で作品を追求している。この写真では、まずはじめに、シャトーとその周辺を順番にカメラに収め、それぞれの写真を大きくプリント。次に、シャトー内で花やフルーツ、葉っぱなどを収集し、写真の色合いを生かしながら、各プリントに配置。その後、このパズルのピースひとつひとつを再度写真に収め、コンピューターで合成したのだった。
1990 ミシェル・ギラール
ジャン=ポール・カウマンと共に、月間誌『L’Amateur de Bordeaux(ボルドーワイン愛好家の意)』を設立したことで知られている。『L’Amateur de Bordeaux』はボルドーワインの公式な批評誌で、写真やレイアウト、文章の質の高さに定評がある。この質の高さは、ギラールに負うところが大きい。ラフィットにはゲストとして何度も訪れ、写真取材を数回担当。この写真は、自身の芸術性を示す最高のもので、ブドウ園で働く人々やブドウ畑、酒蔵そして伝統を写したものである。
1989 田原 桂一
1973年、パリに移住。日本で2本の短編映画を制作した後、キアロスクーロ手法(明暗の配合による表現)とテクスチャーや物質効果に基づく写真撮影のアプローチを選択。一流建築写真家の一人で、様々な国や有名美術館の映像をプロデュース。1988年、ニセフォール・ニエプス賞、1995年、パリ市芸術大賞を受賞。新設された酒蔵の撮影に、まさにうってつけの人物であった。
1988 アーヴィング・ペン
20世紀に活躍した一流のアーティストやダンサー、映画製作者、ミュージシャン、建築家そして作家などを写真に収めている。1950年、27シーズンにおよぶファッション・デザインの仕事をスタート。1964年には、1900年以降使用されなくなっていた、ビロード調の仕上がりが特徴的なプラチナ・パラジウム・プリントの技術を復活させた。極めて率直なヴィジョンを持ち、被写体として、ファッション、静物、ヌードそして、ペルーやネパールの先住民族などの民族を取り上げた。1984年には、ニューヨーク現代美術館で回顧展が開かれた。この写真に関しては、原案を、日記のしわのよったページに描き、郵送するという驚くべき提案方法を取った後、自由な作品づくりが許された。
1987 ジャン・ラリヴィエール
1980年代には、すでに、ルイヴィトンの広告グラフィック(見事な芸術作品)を手がけたことで名を馳せていたジャン・ラリヴィエール。「エゴイスト」などの専門誌に気に入られ、いわゆる「格調高い気品」を生み出した。1940年生まれの若くて才能あふれるラリヴィエールは、従来の写真技術に新しいトーンを加え、エリック男爵とダニエル・ヴィニャの期待に応えた。シャトーのテラスを撮ったこの写真は、世代を超えたシャトーの歴史と不変性を象徴している。(木の根元にある絵は、ハリー・シェファーが描いたジェームス・ロスチャイルド男爵の娘、シャルロットの肖像画である)
1986 ジャック=アンリ・ラルティーグ
若くして写真家になる。1963年、ニューヨーク近代美術館で初の個展を開き、20世紀の最も有名な写真家になる以前、2つの大戦の間は、画家として名が知られていた。1985年、シャトー・ラフィットと葡萄畑を写したこの壮大な写真を撮影し、同年死去。ダニエル・ヴィニャの電話での依頼に、二つ返事で引き受けたラルティーグは、91歳を迎えてなおカメラを肩にかけ、熱心さを失っておらず、唯一の心配事が、良いワインが飲めるかどうかであった!
1985 フレッド・ジョルダ
パリのルイ・リュミエール校卒業、ラボ「PICTO」でカラープリント技師になる。これは彼が得意とする作業で、現在も著名写真家のために技術を提供している。フレッド・ジョルダは日がな一日自らのキャビネの暗室で過ごす。広い空間、光、そして視界を求めて世界中を旅する。インスタマティックカメラで撮影を行う。調整も特別なテクニックもレイアウトもなく、ただ彼独自のアングルとフレーミングがあるのみ。製作の基盤は自然との観想の中にある。
1984 ニコラス・ヴリーランド
仏教僧であるニコラス・ヴリーランド(ニッキー)は写真家でもある。1979年にダライ・ラマをアメリカ合衆国で撮影。ダラムサラ訪問の当初の目的は「聖人」のポートレート撮影であったが、出家願望が芽生え、1990年代に叙階される。ラフィットでの撮影写真には平安に満ちた魂から生まれる柔らかい眼差しが感じられる。
1983 アレクサンドル・ベラッシュ
最初はフランソワ・アラールの、次にジャック・ディランのアシスタントになる。MARIE CLAIRE社およびVOGUE社に参加し、アメリカ合衆国に渡り、HOUSE AND GARDENに参加する。現在は植物撮影、時折ポートレート撮影を中心に活躍している。
1982 アレクサンドル・アミック
1990年写真家になり、中国へ渡る。インドに関する数多くのルポを製作。
写真家であると同時に船舶大工で、大工作業スケジュールにあわせてポートレートを撮影する。彼の写真作品は彼にとって「生活の記録」の集大成なのである。
1981 パスカル・ドレミュ–
「現実を乱すことなく写真におさめる」、そう言いながらもレイアウトによって造られたイメージを用いて現実を乱すことになる。1981年から国立写真財団の奨学金を受け、その数年後にはニエプス賞をはじめとする多くの賞を受賞する。ドレミューは自らをこう語っている、「私は暗室の窓から世界を覗いている・・・時には一つの世界では物足りなく・・・世界を造る、また別の世界を造り出すためには全てが必要なのだ。」
1980 マルク・リブー
1953年に『MAGNUM PHOTOS』に参加。堅固な構成の中に日常の刹那をとらえるその才能は当時から評価が高く、その後数十年間のキャリアを予測させた。1955年から1957年の間、インドを旅し、1957年にはヨーロッパから早々と中国を訪れる。1959年には『MAGNUM』のヨーロッパ副社長に就任。リブーは戦争の恐怖と弾圧を受け衰退していく文化を目の当たりにする。それと同時に、溢れんばかりに太陽を浴びる遠隔地の日常と、パリでの日々の子供遊びのリリシズムを被写体にとらえた。
1979 アレクサンドル・ベラッシュ
最初はフランソワ・アラールの、次にジャック・ディランのアシスタントになる。『MARIE CLAIRE』社および『VOGUE』社に参加し、アメリカ合衆国に渡り『HOUSE AND GARDEN』に参加する。現在は植物撮影、時折ポートレート撮影を中心に活躍している。
1978 リチャード・カルバー
英米文学を学んだ後、1965年にファッション写真家ジェローム・デュクロのアシスタントになる。ニューヨーク滞在の後パリに戻り、『VU』に参加し、『VIVA』を自ら創設、『MAGNUM』に参加しそののち代表となる。都会の日常生活を撮影テーマに世界中で数多くの作品を生み出している。リチャード・カルバーは笑いをもたらしてくれる数少ないアーティストの一人である。





